花梨とうの粒焼き

日々のちょこっとをちょこっと。

生き延びることと生きること。

あるサラリーマン(今はサラリーマンって言わないか)が深夜、一人社内で猛然と仕事をしていた。

退社しようとした矢先、上司に急に理不尽な仕事を押し付けられての残業である。

あと数時間後の会議までにこれを終わらせなきゃならない。

 

何で俺だけこんな目に遭わなきゃならないんだ。

怒りと時間が無いことの焦りで目の前のPC以外にはわき目もふらず一心不乱に仕事をしていた。

 

ふと、背後に気配を感じた。

後ろは壁である。

あー?

何気なく振り向くと、壁から女が生えていた。

 

黒く長い髪をざんばらに垂らし、飛び出た目をした女が上半身を男の方に乗り出すようにぐにゃりと屈みこみ、にやり、と笑った。

 

・・・チッ・・。

男は一瞥をし、舌打ちをして、そのまま再びPCに向き直った。

 

 

ようやく何とか形になったところでPCを閉じ、書類をコピーし終えて会社を出た。

 

ふぅー・・。

家に帰り、人心地ついて朝風呂に身を沈めた時だった。

あれ・・何だっけ・・。

途端に、数時間前に見たアノ女の姿を思いだし、温かいお湯に浸かっているにもかかわらず、ゾッーと身体が冷えたのだ、と言う。

 

 

これは、一般募集された所謂実話怪談の話である^^;

真偽は別として、最初にお化けが出たところで全然何とも驚きもせず、そのまま仕事を続けた体験者が不思議だった。

でも、お風呂に入ってようやっと自分を取り戻した途端に思い出し、はじめてそこで怖くなった、というくだりで、あぁ分かる!・・と思った。

 

もう必死である。この仕事を終わらせなければ家に帰れない。

頭の中はソレしかなく、そして怒りも加わりいっぱいいっぱいだったのだ。

そこにきての、霊の出現。

見たけど見てなかったのだろう。そんな余裕もなかった。

そして、脳のどこかでソレは『めんどくさいもの』『今は必要が無い、排除すべきもの』として処理されたんだと思う(笑)

中身がどうであれ、今必要か、そうでないかのざっくりした二者択一で。

 

いや、分かると書いたものの、実際に自分がそんな目に遭ったらどんな状態でも気を失っていたとは思うけど。

 

 

 

昨日、穂村弘、という現代歌人の著書を読んだ。

『はじめての短歌』ってやつ。

ってやつ、って失礼な言い方じゃないか。

穂村さんの短歌やエッセイは何冊か読んだことがある。

何つーか、すごく柔らかいけど強いような、しなるような、歌を書く人だな、という印象。

でも私には、歌よりエッセイの方が面白い。

つか、ある一句で私は彼のことがあまり好きでなくなった^^;

その一句はうーんと。。何か書きたくないので書かんですけど^^;>

 

で。

一冊を通して彼は、『生きる』ことと『生き延びる』ということについてをメッセージしていて、生き延びる=生活をしてゆくことであり、息をする為に食べて、働くことでありそして、

生きる=生き延びている上で生き生きとした何かを見つけていること、っつーようなことを書いていた。

だから、短歌は、生きていることを書かねば面白くならない、云々と。

 

まあ、生き延びていることをそのまま短歌にしたような歌とて、その歌が読み手にとって歌として生きていると感じたなら面白いと思うけど。

 

その怪談の体験者も、必死に残業をしているのは生き延びる為で、その仕事を放り出して帰る➝数時間後の会議に間に合わん➝上司に怒られる➝重要な仕事を任されなくなる➝もしかしたら左遷される➝給料が減る➝もしかしたらリストラ➝仕事が無くなる➝金が無くなる➝生活出来なくなる➝死ぬ。

という、(直結過ぎるけど)恐ろしい行く末を無意識にでも描いて、だから必死だったのだろうて。

それは、生き延びる、という図。

 

そこにきて、霊が現れた。

それは、生き延びるとは何の関係もない、どうかすると生き延びるのに邪魔な存在である。 そんなものにかかわって驚いたり慄いたり仕事を投げ出して帰っていたりしたら生き延びられん、のだ。

その人の場合、それがだから極端に排除された。

で、帰ってきて、ゆったりとお風呂に浸かる、生き返ったような心持ちになって初めて思い出した。

 

やはり生きることより、生き延びることの方が強いよなぁ現実は・・としみじみもし、また、そのギャップというかそんなのが面白い話だと思った。

 

子供がまだ赤ん坊だった頃、必ずと言っていいほど、夜中の3時に突然泣き出す日が続いていた。

しぶしぶ起きてミルクをやる。

当たり前だが周りは真っ暗、夫も寝こけている。

何故に夜中の3時きっかりなのだ、何かあるのか、何か見えたのか、なんつーことなんぞ全く考えなかった。

考える余裕も無かった。怖さの入り込む隙間も無かった。

そんなことでいちいち怖がってミルクをあげないとかやっていたら生き延びられなかったし。

 

 

怪談を楽しむというのは、心に余裕があるからだよなぁ、、と思う。

勿論今の私の生活に余裕なんてないけど。

怪談を読んだり、ブログを書いたり、花を綺麗だと思ったり、面白い雲だと眺めたり、そういうことは、生きる、ということで。

 

単に生き延びているだけじゃつまらん人生だし、かと言って生きる為には生き延びねばならん。

 

生き生きと生きていたら生き延びていたっつーのが理想なんだけどなぁ。